流鏑馬

一般的に走っている馬の上から弓をひくことだと思われているが、実際には違う。それはあくまでも流鏑馬の一部である。
神事があり、馬上から弓をひき、最後に神事があるという流れ全てで流鏑馬という。

神酒拝戴式(2009年10月4日)
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流鏑馬の語源は「矢馳馬(やはせめ)」ともいわれ馬を馳せながら矢を飛ばすことで、今日使われている流鏑馬の文字は、馬上より鏑矢を用いる意味を文字化したもの。

馬を走らせて的を射る「騎射(うまゆみ)」と呼ばれるものは、京都に都が定まる平安時代以前からあったが、御所では清和天皇(在位858~876)が自ら弓を引かれたり、馬に乗られたりということもあったそうで、次第に公家や武家が務めるようになる。

文献上で最も古い「流鏑馬」の記録は『新猿楽記』とされ、朝廷の警護にあたった滝口、随身により、朝廷の儀式として平安時代盛んに行われていたことが記されている。

武家の流鏑馬は『平治物語』に見える、平清盛の伏見稲荷神社奉納の流鏑馬が初めとされている。
源氏の道統としての流鏑馬は、清和源氏の始祖である六孫王経基が清和天皇の教えを受け、伝承され、宮中大儀の儀式には必ず行われていた。

鎌倉に幕府が開かれてからは神事と結び、重要な儀式として盛んに行われ、特に9月16日の放生会(ほうじょうえ)に鶴岡八幡宮で行われる流鏑馬では、射手となることが武士の第一の誇りであったことが『吾妻鏡』に記されている。

流鏑馬は、鎌倉幕府の衰退により徐々にすたれ南北朝の頃には行われなくなるが、徳川時代に入り八代将軍徳川吉宗の命により小笠原平兵衛常春が高田馬場で復興し、徳川家の大事にたびたび行われるようになる。この時より、流鏑馬のほかに騎射挟物(平騎射)が軽装で行われるようになる。

馬場の長さは約二丁(250m)、柵を設け、的側の柵である男埒(おらち)を三尺五寸(約106cm)、反対側の女埒(めらち)を二尺八寸(約84cm)の高さにする。
馬場の両端を馬場元、馬場末といい、射手は馬場の三ヵ所に立てられた一尺八寸角(平騎射の場合は一尺五寸角)の板的に矢を放つ。

馬を馳せながら矢声(やごう)をかけるが、意味のない言葉は臆病声といい、意味ある言葉として「インヨー(陰陽)」の声をかける。矢声は番える動作の間に発す。
 
流鏑馬射手の装束は、立烏帽子、綾藺笠を被り、鎧直垂に射籠手を着け、夏鹿毛の行騰・太刀を履き、を負い弓矢を持つ。この服装はあげ装束ともいわれ、鎌倉時代の武士の狩装束である。

平騎射の射手の装束は、騎射笠を被り筒袖の紋付に小袴と、江戸時代の武士の平服に近い。

流鏑馬射手と騎射挟物射手(2010年10月3日)
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また、毎年5月に葵祭の前儀として下鴨神社(賀茂御祖神社)で執行される流鏑馬では束帯姿、10月に穴八幡宮で執行される流鏑馬では水干姿で、射手は務める。

束帯姿の流鏑馬射手
束帯姿の射手(下鴨).jpg

水干姿の流鏑馬射手(2010年10月11日)
水干姿の射手(穴八幡宮).jpg


現在、小笠原流の流鏑馬が執行されている場所

宮崎神宮(宮崎県宮崎市)
鷲原八幡宮(島根県津和野町)
浅草(東京都台東区)
賀茂御祖神社(京都市左京区)
富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)
日光東照宮(栃木県日光市)
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
穴八幡宮(東京都新宿区)
笠間稲荷神社(茨城県笠間市)
多度大社(三重県桑名市)


  • 最終更新:2011-04-22 00:37:39

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